防災・減災への指針 一人一話

2014年01月16日
新たな観光プログラムの重要性
JTB東北
革島 仁さん
JTB東北
冨久尾 圭造さん

旅行会社の震災時の対応

(聞き手)
 JTBさんでは、震災以前には、どのような対策や備えがしてあったのでしょうか。

(革島様)
全国のJTBの支店で横の連携を取り、安否確認を最優先するような体制を取っています。
避難訓練などは、各社が当たり前のようにやられているのではないかと思いますが、地震だけではなく、台風などの影響で海外から帰国できないお客様もいます。そのため、緊急の場合は現地の支店等とやり取りをするようにしています。
9.11のテロが起きた際はかなり混乱しまして、全世界的に飛行機などが止まってしまいましたので、その国それぞれの対応をさせて頂いたというのは、一番大きなところだと思います。
そのため、修学旅行などでお連れする際は、宿泊されるエリアのハザードマップ、あるいは避難場所や病院の所在地などを、全ての学校様、あるいは添乗員、支店の方で共有をしまして、体制を整えるような形になっています。

(聞き手)
防災訓練はどのような形で行われていますか。

(革島様)
震災後は何度か行い、メールによる安否確認の訓練を、抜き打ちで定期的にやっています。
これも社員全員が日本にいれば良いのですが、そうでない場合もあります。
しかし、そういった訓練に対する感度は上がってきています。

(聞き手)
 東日本大震災発災時の状況と、そこからの対応をお聞かせください。

(革島様)
発災の2日前にも地震が起きて、その際も津波警報が出たのですが、その時は利府のグランディ21で約1万5,000人を集めたイベントをしている最中でした。
お昼くらいに揺れたのですが、始まる前に避難経路などの確認をやっていたので、事なきを得る事が出来ました。
3月11日は社内で被災をしました。
私たちの会社は50人ほどいるのですが、当日、30数名が営業で外に出ていたため、まずは安否確認をしました。
発災は金曜日で、3連休直前でした。
電気などのインフラが全部止まりました。
ですから、週明けの火曜日までに、まず社員の家庭での生活を取り戻す事を先決にし、ある程度片付けや準備が済んだ者から順次、出勤するようにしておりました。
すべてのツアーは自動的にキャンセルになってしまいましたので、「飛行機や空港の状況はどうなっているのですか」「東京に行きたい」など、お客様からはいろいろな問い合わせを頂いておりました。

(聞き手)
当初の揺れはどうでしたか。

(革島様)
初めての経験で、電気も通じず、どういう状況なのか把握出来ませんでした。そのため、津波があれほどまでに酷かったというのも、全くわかりませんでした。
翌朝、携帯電話でニュースを見ると、閖上に200人の御遺体があったという情報が流れ、そこでようやく把握出来たという状況でした。

(聞き手) 
揺れが収まった間に、津波が発生するという予感や予見はありましたか。

(革島様)
2日前に津波警報が出ておりましたので、直下型でない限り、津波は来ると思っていましたが、今回は想像をはるかに越えた津波でした。

(聞き手)
業務上でダメージを受けた事はありましたか。

(革島様)
現在はほとんどをコンピューターで管理しているものですから、電気が止まってしまうと、大半のデータが使えなくなってしまいます。
東北に来られるお客様や、こちらから出発する旅行などは交通機関がマヒしておりますので、自動的にキャンセルになりました。
私たちの重要なパートナーであります旅館さんやホテルさんなどの、被害状況を確認しなければいけませんでした。
JTB東北本社には仕入れセクションがあり、旅館さんやホテルさんなどを取りまとめている所があります。そちらが施設の状況を逐一確認していました。
私たちは、施設の状況を一覧にまとめていました。
暖房を電気で動かす旅館等は駄目だったのですが、重油のボイラーをたいている所はお湯が出たとか、泊まって頂いてもリネンが間に合わないなど、現地でしかわからない情報がありました。
その後、電力関連や住宅関連の様々な方たちが仙台に復旧の応援に入られたため、宿泊の手配などもさせて頂いていました。
発災後10日目くらいから急に忙しくなりました。ホテルさんの個々のコンディションはどういう状況なのかを、実際に副支店長がレンタカーを借りて現地に見に行っていました。しかし、ガソリンも無かったので、場所によっては確認出来なかった所もありました。

観光復興支援センターによる情報発信

(聞き手)
 震災後は、どのような業務をされていたのですか。

(革島様)
まず、復旧に関わるお仕事をされる方の宿泊の手配をやらせて頂きました。
また、避難場所から旅館さんに二次避難した際のお手伝いもさせて頂きましたし、ボランティアの方たちに宿泊施設の紹介をさせて頂きました。
そのボランティアですが、始めの頃は、被災地で必要とされるニーズと来られた方のニーズとがマッチしないケースもありました。
 現在は、宮城県さんから委託されております、宮城観光復興支援センターを立ち上げました。これは被災地の観光施設等々の復興の状況がどうなっているのかを調査したり、ボランティアのマッチングをしたり、被災地へのツアーの情報提供を全国に発信するという業務を、県の事業として実施しています。
やはりイメージだけではなく、正確な情報をお伝える事が大切だと思いますから、1日も早く復興していただくためにも、そういった事が必要になります。

(聞き手)
どういった形でリサーチをかけていくのですか。

(革島様)
当初は13名くらいの要員でリサーチしていました。現地に足を運び、タイムリーな生の情報を収集しました。

(聞き手)
多賀城市へのボランティアは、ガレキを片づけるといったボランティアさんが多かったのですか。

(革島様)
それ以外にもいろいろありました。
例えば、側溝の瓦礫処理や掃除などです。
こちらからは募集をかけていないのですが、東京から来たいというお客様から、東京にあるJTBの支店を通して問い合わせが来る事もありました。

全国から集客した「学びのプログラム」

(聞き手)
とりあえず支援に行きたいという方が多かったのですか。

(革島様)
そうですね。ピンポイントで多賀城に行きたいというお客様は、少なかったかもしれません。よく取り上げられていた気仙沼や南三陸、石巻、女川が多かったかもしれません。
ただ、その際のお泊まりになる場所は、沿岸部に行けば行くほど少なくなります。日を追うごとに全国の旅行会社さんから、内容が異なった問い合わせが来たため、こういったマッチング支援は重要だったと思います。
私たちの地域貢献として出来る事は、日本は地震大国でもありますので、全国から多くのお客様をお連れして、ご自身の目で現状を見て頂きこれを教訓に備えをして頂きたいという事と、被災地の観光資源に1人でも多くお越し頂くことではないかと思います。
学びのプログラムというツアー企画は、10コースあります。2011年、12年、13年の8月まで実施していまして、多賀城市さんにもご協力を頂いていました。

(聞き手)
学びのプログラムでは、学識経験者も含め全部で各部門、計15名の方でプログラムを構成しており、その中でも革島様は観光部門という事で、多賀城市さんに様々な提言をされているようですが、就任のきっかけは、今回の被災地の支援をした事ですか。

(革島様)
いいえ。私は、震災前から多賀城七ヶ浜商工会からお声がけを頂き、どうやったら多賀城市や七ヶ浜町に観光客が来るのかという事を検討する観光振興ミーティングを何回か実施しており、それがきっかけだったと思います。

(聞き手)
その中で色々なご提言をされていますが、防災教育と観光産業を結び付けるという点ではどうお考えなのでしょうか。

(革島様)
例えば、長崎、広島が平和教育という事で、既に定着しておりますので、そういったモデルケースも参考にしながら、教育の観点で、震災、防災を忘れないという事を教訓にして頂くという発信をしております。この学びのプログラムは南三陸、多賀城、名取、石巻、福島、女川、宮古とあるのですが、13年度は、各地から5,000名ほどの方にお越し頂きました。このうち、学校関係の旅行が約1,300名という事で、今後はそういった教育旅行を宮城県に誘致するというような考えがあります。やはり高校生や中学生にご自身の目で見て学んでもらい、何か感じて頂いて、お帰り頂くという事で、教育旅行が増えてきております。

(聞き手)
多賀城も復旧、復興が進んできている中で、今後の展開はどうされる予定でしょうか。

(革島様)
学びのプログラムは打ち切りになったため、資料館のようなものがあれば良いのですか、そう簡単なものではないと思います。

(聞き手)
学びのプログラムを多賀城市で対応されて、何か大変だった事や、苦労された点などございましたか。

(冨久尾様)
現地の状況が刻々と変わっていくという点です。日本全国のJTBの営業マンに商品を見てもらい、販売してもらうというような手法にしているのですが、刻々と変わる状況に対応することが大変でした。
例えば、市街地の観光の部分が、当初1時間だったのが40分に変更される事もあり、常にチェックが必要になります。そのような状況が常にありました。

(聞き手)
何かもう一つ、こういう事をやったら良いのではないかというような提言はありますか。

(革島様)
多賀城市は、宿泊施設や観光施設、食事場所という基本的な部分が、松島などに比べると少ないと思います。そのため、今まで観光地を巡る事だけが観光のように思われたのですが、これからは教訓や体験といった部分を経験して頂く形の旅行も増えてきています。
私も震災前から商工会へお邪魔していましたので、多賀城市には何があるのかと調べたのですが、あやめ祭りや東北歴史博物館などがありましたが、観光客を多く集客するまでの引き込む力が小さいと感じました。

新たな観光プログラムの創出

(聞き手)
 観光の目玉として、何が活用できるとお思いですか。

(冨久尾様)
可能性があるとすれば、臨海鉄道の活用だと思います。
多賀城市の山王から出発して、仙台港まで通じているのですが、北海道での事例では、小学生が運転出来る鉄道があり、夏休みや冬休みに非常に人気になっているものがありましたので、臨海鉄道を夏休みと冬休みに、そういった場にしてみることも考えています。

(革島様)
観光といいますと、自然の観光、あるいは神社、仏閣などの施設観光がありますが、多賀城市では、どちらも厳しい部分があると思います。また、奈良市と友好都市でもあるのですが、宿泊施設がないのが現状です。さらに、私たちが教育旅行として提案させいただいているのは、東大阪の工場地帯を何班かに分かれて訪れ、高校生が地元の人の話を聞いてくるという旅行もあります。それに加えて、伝統工芸に触れる機会などがあれば、そのような形でプログラムにするのも可能だと思います。今から施設を建てるのは厳しいと思いますので、地元の人たちとの触れ合いですとか、地元を体験するなどの部分で何か面白いものがあれば良いと思います。

(冨久尾様)
観光の担い手の育成も同時にしていく事が必要で、商品と人材の両軸が大切になってくると思います。

(革島様)
多賀城市さんからも、多賀城は松島や空港の通過点になってしまうため、引き止めたいというようなお話がありました。
やはり、そこをどうにか、松島ではなく多賀城だと言われるような、何か存在感がある、歴史以外の次なるものというのを何か作れれば、非常に良いと思います。

(聞き手)
 今回の震災を通じて、後世に伝えたい教訓などはございますか。

(革島様)
多賀城というと、工場地帯や仙台のベッドタウンというような形になってしまいますが、多賀城市さんは復興が早かったと思います。
しかし、観光という観点では様々な課題が出てきたと思いますので、それを解決していかないといけないと感じました。
私たちJTBは震災が起きた翌月の4月から、全国から東北を重点販売するキャンペーンを半年間実施した事に加え、JRさんのデスティネーションキャンペーンや、誘客活動などにも協力しました。

(冨久尾様)
震災当初の1週間は仕事が全くなくて、今後どうなるのだろうかと思いましたが、様々な仕事が急遽入り、まず目の前の仕事をこなしていこうという状況でしたので、やはり復旧、復興は必ず出来ると思います。
また、そこを目指していく事が、後世に語り継げる事なのではないかと思います。

(革島様)
震災が起きたからという事ではなく、やはり多賀城市にも良い所があると思いますので、東京、あるいは海外から来られたお客様が目にした時に、これは面白いというものが多分あると思います。
それをアピールして頂ければ、私たちもお手伝い出来ると思います。地元ならではのものを自信を持ってお勧め出来るとなれば、私たちは全国に発信していきたいと考えます。